『街場の共同体論』 内田樹著 潮出版社
11月 11日 | 投稿者:FUJIO MIYACHI | 書評AERAの巻頭のコラムがきっかけで、ここ最近著者の本を特によく読むようになった。その理由は、ボク自身が感じている日々の暮らしの中での疑問や違和感、モヤモヤしたものに対して道筋をつけてくれるから。勿論、答えが用意されているという意味でなく、当たり前を当たり前として向き合い、そして取り組む。当然の事に対して真摯に向き合っている。そうか、ボクがおかしいとか不自然に思うような事は、誰も口にしないけれど本来ならば当然の疑問としてあっていいものなのだ。そういう自信(安心と言うべきか)を与えてくれる。ずっと都心で育って来た僕にとっては逗子に引っ越してからの生活は快適だ。勿論、都心の生活が悪いと言うのではない、ボクにはここが合っているという意味である。近くに実家があり、作りすぎたご飯はおすそ分けをしたり、ご近所さんから野菜をいただいたり、怪我や病気の時は看病をしたり、代わりに犬の散歩をしたり。そんな暮らしをしているからだろうか、なおさら、この書の言わんとする事はボクに響く。
印象的な部分を幾つか。
弱者と共同体について
(以下、引用)「繰り返し言いますが、僕たちが共同体を形成しているのは、弱者を支援するためです。強者同士が競争して資源を奪い合う為ではありません。」
(もう一つ引用)
「幼児は「かつての私」であり、老人は「未来の私」であり、障害者や病人や異邦人は「そうなったかもしれない私」だからです。「私がそうであったもの」「そうなるもの」「そうなるかもしれないもの」をすべて「私の変容態」だと見なすことができれば、集団とは端的に弱者を支援するシステムのことだと言う意味が分かるはずです。」
共同体のあり方として「贈与」という考え方
(以下、引用)「それは、商取引的な関係ではない。サービスと代価のやり取りでもない。一方的な贈与です。でも、それはただの「持ち出し」じゃありません。僕たちが先行世代から贈与され、支援されてきたことへの「お返し」だからです。「パス」されたら「パス」を回す。それだけのことなんです。パスをつなぐ。でもそれは、人間関係を商取引としてしか好走出来ない人間には理解出来ない「物語」です。」
日々せわしなく流れる時間の中で色々なものに追われて暮らしていると、今まで見えていたものが次第に見えなくなる。気がつくと日々のTODOをこなすことで毎日が終わってしまう。そればかりだと余裕がなくなる。余裕がなくなると、周りが見えないから優しくするのが難しくなる。がむしゃらに働く時期も必要、学ぶ時期も必要。だけど、立ち止まってじっくり考えたり、景色を眺めてぼーっとする時間も必要。困った人に気がついたら声をかける。そこで困っているのは「そうなったかもしれない私」。少しでもそう思えたらならば、世界は変わる。家族や地域のあり方を軸に語られる著者の想いからまだまだこれからもたくさんのことを学びたい。