『路地裏の資本主義』を読む。ー足下にある定常経済ー

10月 29日 | 投稿者:Ryojiro Yamamoto | 書評, 経営学
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imageビジネス書全巻ドットコムの店主であり、走る社会学者とひそかに呼んでいる宮地藤雄氏がレコメンドしていたので読んだ本。増刷となって売れているよう。

まず、表紙の写真がとても良い。著者が生まれ育ち、最近また居を移し、仲間と働く、東急池上線の荏原中延駅の商店街だろうか。この地に今年、喫茶店も開いたのだという。「町に自分たちの根拠地をつくりたい」という理由からそうしたのだと書かれてある。「町に根拠地をつくる」。

何だろう、この魅惑的な響きは。何度でも口に出してみたくなる。「町に自分たちの根拠地をつくる」。学生時代、大学には向かわず渋谷、新宿の裏町を毎日のように彷徨った著者は、歩き疲れると喫茶店に立ち寄り、何時間でも無為な時間を過ごす。渋谷の道玄坂にあった「ライオン」という名曲喫茶に、ついには毎日入りびたり、一日中そこで過ごした。

喫茶店の対極にあるものとして描かれているのは、言うまでもなくスターバックスやドトールに象徴されるカフェチェーン であり、無為の時間を過ごすためにあった喫茶店が、いつの間にか「駅前で朝のコーヒーを飲んで仕事へ向かい、バリバリと稼ぎを増やすことに熱中」するための場へと変質していく。

しかし、本当は自分が何が欲しいのかもわからぬまま、交換価値しかない「お金」を儲けることが目的となった人生は本末転倒であり、効率化が最優先される時代にあってもっとも貴重なものは「時間」であるはずで、だから、それがたっぷりある「根拠地」をつくったのだという。平川氏が否定的に描くチェーンビジネスの経営に身を置く者としても、このことはとてもよく分かる。例えば、苦境が伝えられるマクドナルドは、機械的で無機質な、効率を代表するチェーンと見られるかもしれない。

1992年4月、黒人差別に端を発し、近隣の商店という商店が軒並み焼き打ちに合い、破壊され、略奪の限りを尽くしたロス暴動にあって、当時その地域に30店あったマクドナルドだけは、一つの店舗も被害に合うことなく営業を続けた。マクドナルドだけが町に佇むその奇跡的な風景を、私は映像で観たことがある。長年にわたる地域での活動と住民との信頼関係が、暴徒をすら、あの店は襲ってはならないと立ち止まらせたのだ。「地域への還元は我々の義務であり、その活動は実を結ぶ」。創業者のレイ・クロックの言葉である。

ベリーベリースープにあっても同様である。業績の良い店舗は必ず町に根ざしているのであり、個店であれチェーンであれどんな商いも、それ以外の形で成功することはないのだと思う。店舗経営に限らず、自分たちは「町の根拠地」たると言えるのか、まずそれを点検してみることこそ、大切なのかもしれない。

カフェ文化に留まらず、豊富なエピソードや力みのない文体を通じて筆者が問うているのは、経済成長やグローバリズムを超えた、あるいはその先にある定常経済であり、生き延びるための共生へと向かう思想と多様性、個性についてである。

印象に残る文章をいくつか紹介して筆を置こう。

「わたしの母は、晩年、足を引きずりながらも、同じ時刻になるとカートを押して商店街へ出かけていきました。母の死後、箪笥の奥から、封を切っていない下着や洋服がたくさん出てきたとき、わたしは最初戸惑いました。「なぜ?」という思いが母親の面影と重なりました。(中略)母は、消費者として商店街へ赴いていたのではなかったのです。見たい顔がそこにあり、話しかける人がそこにいただけだったのです」

「生きるということは、時間のなかに自分を投ずることです。そして、わたしは、それは将来の自分というものに対して、自分を投棄し続けるということ、言い換えるなら、絶えず何かを贈与し続けるということではないかと言ってみたい気がします。投棄=贈与している何かとは、「若さ」そのものです」

「わたし(たち)は、どこかで勇気のある強い男になりたいと思って生きています。しかし、もし臆病であるがゆえに、優しさを獲得できるのだとすれば、勇気など必要ないのかもしれません」(どんな犬にも吼えたり噛みついたりすることのなかった、保健所から引き取った冴えない雑種犬「まる」の死に際して)

「民主主義を実現するためには、汎通的かつ模範的なロールモデルなどないほうがいいのです」

 

 

 

 

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