村上春樹著『走ることについて語るときに僕の語ること』を読む。
7月 20日 | 投稿者:Ryojiro Yamamoto | 書評読みたいと思いながらどこかで敬遠していたのか、なかなか頁をめくれなかった本。自分が走らなくなってしまったからだろうか。
タイトルは、レイモンド・カーヴァーの『What We Talk About When We Talk About Love』によるという。ジョギング好きの作家による軽いエッセイだろうと思って読み進めたところ、小さくない衝撃を受けた。この本に10年以上もかけたと著者自身が記している通り、エッセイではなく「メモワール」である。書くこと、走ること、生きること、創造することについての、ずしりとした言葉や文章が随所にある。
「しかし僕は思うのだが、息長く職業的に小説を書き続けていこうと望むなら、我々はそのような危険な(ある場合には命取りにもなる)体内の毒素に対抗できる、自前の免疫システムを作り上げなくてはならない。そうすることによって、我々はより強い毒素を正しく効率よく処理できるようになる。言い換えれば、よりパワフルな物語を立ち上げられるようになる。そしてこの自己免疫システムを作り上げ、長期にわたって維持していくには、生半可でないエネルギーが必要になる。どこかにそのエネルギーを求めなくてはならなくなる。そして我々自身の基礎体力のほかに、そのエネルギーを求めるべき場所が存在するだろうか?」。
「言うまでもなくいつかは人は負ける。肉体は時間の経過とともに否応なく滅びていく。遅かれ早かれ敗退し、消滅する。肉体が滅びれば(まずおそらく)精神も行き場を失ってしまう。そのことはよく承知している。しかしそのポイントをーつまり僕の活力が毒素に敗退し凌駕されていくポイントをー少しでも先に延ばせればと思う。それが小説家としての僕の目指していることだ。とりあえず今のところ、僕には「やつれている」ような暇はない。だからこそ「あんなのは芸術じゃない」と言われても、僕は走り続ける」。
そのために、つまり物語を紡ぎ続けるために、それを読者に届け続けるために、ストイックに、ストイックに、何十年も走り続けてきたというのである。あの柔らかい、優しい作品と文体のどこに、そのような激情は、狂気のような反復が潜んでいると言うのだろうか。
マラソンやトライアスロンに打ち込む経営者も少なくない。経営というアートは、村上春樹にとっての走ることを、やはり人に求めるのだろうか。実際、定期的にマラソンに出ている若い上場企業社長は、上場する少し前、経営が大きく傾き何とかしなければならないと思った時、走るしかなかったのだと言っていた。走ることで、自分を鍛える以外になかったのだと言う。
さて、作家はなぜランナーになったのか。その前に、人はどのようにして作家になるのか。大学在学中から国分寺南口(途中から千駄ヶ谷)でジャズ・クラブのようなものを経営していたという著者は「失敗したらあとがないから死にものぐるいでがんば」り、経営が漸く軌道に乗った三十歳になる目前、突然「今なら何か自分なりに手応えのあるものが書けるのではないか」と感じたのだという。そして、ここからが非凡な点の一つだが、それほど長くない最初の二冊の「感覚的な」小説を書いたところで、「自分にはもっと大柄な作品が書けるはずだ」と思い、周囲の反対を押し切って店を閉め専業の小説家になっていく。その時に書き上げた長編小説が『羊をめぐる冒険』だ。私が読んだのはここまで、多分高校生の頃だと思う。
ともあれ、職業小説家になったばかりの著者が最初に直面した深刻な問題は体調の維持だった。そこで、気が向いたときに好きなだけ運動することができるランニングを始めることにし、煙草をやめ、朝の五時に起きて夜の十時前には寝るという簡素で規則的な生活を開始したのだという。本書出版時点でそれから20年もの間、今もそうなら30年、驚くべき節制と規律、そして年月である。その日常は、人間の創造性や創作活動には何の関係もないと笑い飛ばすことはできない。なぜならそのような暮らしから生まれた作品が、『ノルウェイの森』や『1Q84」などのことだが、多くの人たちに事実として「何か」を届けたのであろうから。それがどのようなものであったのか、遅ればせながらその二作を読んでみよう。
最後に、作家の、ランナーとしての挑戦の軌跡を、メモを残し筆を置こう。
小説のために33歳で走り始めた翌年の真夏、アテネからマラトンまでの初マラソン。朝五時半にスタートし、とんでもない酷暑の中をたった一人で、大型トラックが猛スピードで走り抜ける産業道路を、轢かれて死んだ三匹の犬と十一匹の猫を横目に3時間51分で完走。
早朝の神宮外苑ですれ違うたびに目礼をし微笑みを交わした二人の若い選手が、北海道の夏合宿で交通事故で亡くなってしまう。S&Bの谷口選手と金井選手、著者は沖縄合宿の取材をしたこともあった。オリンピックのメダルも狙える器だったという。
ボストンのチャールズ河沿いで、誇らしげなポニーテールの「ハーヴァードの新入生らしい女の子たちにどんどん後ろから抜かれていく」ときの哀愁漂う描写。
1996年6月サロマ湖100キロウルトラマラソンを11時間42分で完走。「終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そんな気がした」。その後「ランナーズ・ブルー」に陥る。
2006年10月村上トライアスロンを心から楽しみ完走。「そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として」。